2015-04-05 05:05:54
バーガヴァタプラーナを読んでいて、ふと疑問に思ったことがありまして。
それは、「解脱すると幸せなのかどうなのか」、ということです。
解脱とは、ヴァイクンタ(ヴィシュヌ神の住処、輪廻転生のない世界)に行くことだそうですが、
解脱とはいったいどんな境地なのか、幸せなのかそうではないのか、もう一度「あるヨギの自叙伝」を読んでみました。
亡くなったスリ・ユクテスワが、ヨガナンダのもとに現れて語った言葉より。
(・・・一度読んでも、すぐに忘れてしまうんですよね(_ _。) 。
ヴィシュワナンダ聖者のサットサンガでのお話も、メモを取っていたからうっすら覚えていたものの、覚えておきたかったことも忘れてしまう・・)
「地上のたいていの人間は、生前、幽界生活より高い喜びや幸せを瞑想によって味わう修練を怠っているために、死後もなお、地上のはかない快楽に戻りたいと願う。
それと同じように、多くの幽界人もまた、彼らの幽体が崩壊していくときでも、観念界の高い霊的喜びの状態を想像することができないために、依然として、幽界の濃厚で派手な幸福に執着して、再び幽界の楽園に生まれ変わりたいと希望する。
このような人たちは、幽界のそうした根強いカルマを完全に果たさないうちは、創造主との間に、もう僅かな薄い仕切りしか残していない観念界に定住することはできないのだ。
魂が、もはや目に楽しい幽界の経験を願わず、また、そこに帰りたいという誘惑にも陥らなくなったとき、初めて観念界に留まることができるようになる。そして、さらにそこで、一切の過去の欲望の種子である、観念体のカルマを完全に根絶し終わった時、魂は、これまで自分を閉じ込めていた3つの無知の栓の最後の分を開いて、観念体という最後の容器から脱け出し、ついに永遠なるおかたと一つに溶け合うのだ。」
「三重のまゆを脱ぎ終わった魂は、相対性の法則から完全に解放されて、言葉では説明のできない、永遠の実在者と一つになる。こうして宇宙霊の中に溶け込んだ魂は、光なき光の、闇なき闇の、想念なき想念の絶対境に留まって、宇宙創造という神の夢を、至福の恍惚の中で楽しむのだ」
「魂が、3つのからだ(観念体、幽体、肉体)による3段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性を持ったまま、無限なるお方と一つになる。
イエス・キリストの魂は、イエスとして地上に生まれる前に、すでに最高の解脱を達成しておられたのだ。
霊的に未熟な人間は、3つのからだから脱け出すまで、地上界、幽界、観念界に無数の生まれ変わりを経験しなければならない。
しかし、ひとたび最高の解脱を達成した大師たちは、人々を神のもとに導くために救済者、すなわち救い主として再び地上に生まれることも、また、幽界に住むことも可能なのだ。」
・・すでに解脱した大師が、新たに肉体に宿って生まれてくるのは、本人の自覚する特別の目的のためであって、カルマの法則に支配されているのではないそうで、このように、自発的に地上に戻ってくることを、「あるヨギの自叙伝」よりますと、「ヴュッターナ」というそうです。
解脱とは、永遠の実在者と一体になることなのですね。
至福の恍惚の中で、宇宙創造という神の夢を楽しむ、というのがどんな心境かちょっと分かりませんが、幸せそうです。
そして、ひとたび最高の境地に至ったら、また自由に生まれ変わっても良いとのこと。
(せっかくヴァイクンタに到達したのに、再び生まれ変わってマーヤー(幻)に囚われてしまうこともあるのでしょうか。興味深いです。)
バーガヴァタプラーナに出てくる賢人、聖者というのは、この、最高の境地に至った方々なのかもしれないなあとも思ったのですが、そういえば、そのような話を読んだ気がする、と思って探してみましたら、
ありました!聖仙ナーラダの話でしたo(〃^▽^〃)o
聖仙ナーラダは、聖仙ヴィヤーサに語りました。
「不生なるあなたは、世界の幸福のために、この世に生を受けたのです。それゆえ、どうかあなたは、栄光に満ちた主(クリシュナ)の偉業の、その全てを語るようにしてください。
(ヴィヤーサ仙は、ヴィシュヌ神の17の顕現と書かれています。)
先のカルパ(劫)における私の前世は、ヴェーダに精通したブラーフマナに仕える、一人の侍女の子供として生まれたのでした。
まだ子供だったのにも関わらず、私はヨギたちに仕えるよう、命じられたのです。
ほんの子供であったものの、私は子供らしい遊びには関心がなく、従順で素直、寡黙で、おもちゃには近づきもしませんでした。
彼らブラーフマナの許可を得て、私は日に一度だけ、彼らが食べ終えた残りだけを口にし、そうして持つ罪をすべて清められたのでした。
主を賛美して歌う聖者たちのおかげで、私は毎日のように、心慕われるクリシュナの話を聞くことができました。
苦しむものに憐れみぶかき彼ら聖仙たちは、その旅立ちにあたって、主ご自身によってあらわされたもっとも深遠なる智慧を、慈悲深くも授けてくださったのです。
そしてその智慧によって、やがて私は、世界の創造者、主ヴァースデーヴァ(クリシュナ)のマーヤー(人を欺く力)の栄光を知るに至ったのでした。
聖者たちが神聖な智慧を私に授けて旅立って行かれた後、まだ子供であった私は、次のようにしたのです。
母は、侍女の身分で、また無学でもあり、私はそんな彼女の唯一の子供でした。私は母に頼り切っており、そんな私を、母は溺愛されたのでした。(その頃ナーラダ仙は5歳でした)
そんなある日、母は、牛の乳を搾りに出かけ、その途中、踏みつけた蛇にかまれて、そのまま命を落としてしまったのでした。
私はそのことを、信者の幸福を願う主の恩寵と受け取りました。
私は旅をつづけました。身も心も疲れて、のどの渇きと空腹に襲われた私は、そこにあった川のよどみで沐浴し、水を飲んで口をゆすぎ、旅の疲れを癒しました。
人の住まないこの森の中で、私はピパラの樹の根元に座り、心の中に住んでおられる主を、耳で聞いた通りに、心を集中して瞑想したのでした。
主の蓮華の御足を想うや、私は愛の思いに圧倒され、ハリ(クリシュナ)を見たいという願いに、目からはとめどなく、涙が流れました。すると徐々に、私の心の中に、主が姿を顕されたのです。
それを見た私は、愛の思いに打ちのめされ、心は深い喜びと平安に包まれました。歓喜の波に満たされた私は、おお聖者よ、自分と知覚の対象を、全てそのまま失ってしまったのです。
けれども、主のお姿を見れなくなったとき、私の心は困惑し、跳ね起きました。
もう一度、主のお姿を見ようと、私は心を集中して求めましたが、それは叶いませんでした。望みをかなえられなかった私は、まことにみじめな気持になったのでした。
主は、荘厳な、かつ優しきお言葉で、このように語られたのです。
「あなたは、もはや今生では、私の姿を見ることはできないだろう。なぜなら、いまだ心の穢れを完全には除かず、バクティにて完成を得ないものにとり、この私を見ることは不可能だからだ。
私を見たいと願うものは、徐々に、かつ完全に、心に潜む欲望を捨てねばならないのだ。
その忌むべき体を捨て去った後には、あなたはわが直属の従者としての地位を手にできるだろう。
あなたが私に固定した思いは、決して消えることがないだろう。そして、全ての被造物が消え去った後でも、あなたは私の慈悲によって、私のことを忘れることがないだろう。」
このように語られた後、あの偉大なる不可視の存在、エーテルのように遍満するお方は、話すのをやめられたのでした。
そして、主の素晴らしき慈悲を悟った私は、偉大な中でももっとも偉大なる、その主に頭を下げたのです。
もはや私はすべての躊躇を捨てて、神秘と吉祥に満ちた主の御名を唱え、不滅なる主の偉業に心を集中しました。すべての渇望を捨てて、虚栄と嫉みを放棄し、自らに満足した私は、その後、死の時が来るまで、世界を巡って過ごしたのです。
そして、クリシュナに心を固定して、全ての執着を捨て、心の浄化を得た私に、死はまるで稲妻のごとく、定められた時にやってきたのです。
主の従者としての非物質的な身体に、まさに私が移行させられんとする時、物質的な私の身体は、身体を持つに至ったプラーラブダ(行為を起こさせるカルマ)を刈り取られた結果、そのまま朽ち果てたのでした。
先のカルパの終わりに、主ナーラーヤナが全被造物を吸収され、宇宙を沈めた水の中で眠られた時、ブラフマー神も主の身体に入って、そこに眠られたのです。そしてその時、私もまた、主の呼気とともに、主の身体の中へ吸収されたのでした。
1千にも及ぶ4ユガのめぐりが終わって、今やブラフマー神は目覚めるに至り、再び世界を創造せんと欲せられた時、彼はご自身の意識から、マリーチなどの聖仙とともに、この私を生み出されたのでした。
神を忘れないという誓いを守って、私は自由に三界の内と外を行き来し、私の行く道は、マハーヴィシュヌ(ナーラーヤナ)の恩寵によって、どこでも妨げられることはありません。
主から授けられたヴィーナーを奏でて、ブラフマンを表す7つの音を紡ぎながら、ハリの物語を歌って、私はこの宇宙を巡り続けるのです。
そして、喜ばしき主の偉業を歌うやいなや、主はまるで召喚されたかの如く、私の心に姿を顕されるのです。」(引用ここまで)
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ナーラダ仙は、前のカルパ(劫)の時に、最高の境地に至った聖者さんだったのですね。
ところで、少し不思議に思ったのですけれども、
「主ナーラーヤナは第三の顕現を、天界の聖仙ナーラダとしてあらわされた」
と書かれていたのですが、ヴィヤーサ仙は17番目の顕現だったのですよね。
ということは、ナーラダ仙は、かなり長く生きておられるような気がするのですが・・
マハアヴァターババジのような存在なのでしょうか。
ところで、バーガヴァタプラーナの中では、解脱という言葉が何度も出てきます。
解脱について、バーガヴァタプラーナより抜粋します。
「知識にて傑出せんと願うものは、プリハスパティ(神々の教師)を崇めねばいけません。
宦官の鋭さを求めるなら、インドラ神を崇めるべきでしょう。
子孫を求めるなら、プラジャーパティ(創造を司る神)を満足させてください。
繁栄を求めるものは、神聖なるマーヤーを崇めれば良いでしょう。
疲れることなき活力を求めるなら、火の神を崇めるようにするのです。
また、富を求めるならば、ヴァス神軍を礼拝してください。
力強きものが、さらに力を欲するなら、ルドラ神軍(シヴァ神の部分的顕現)を崇めれば良いでしょう。
(少し省略)
不吉な目的で呪文を使おうと思うなら、ニルリティ(死の女神)
感官の満足を欲するものは、ソーマ(月の神)を礼拝してください。
しかし、全ての欲望を絶ちたいと願うなら、その人は、プラクリティを超越する、主の神を礼拝しなければならないのです。
欲望を持とうが持つまいが、解脱を求めるならなおのこと、賢明なるものならば、強いバクティ(神への愛)の思いにて、その最高者を礼拝すべきなのです。
インドラなどの神がみを崇める人であっても、主の信者たちと交際して、主への信仰を深めるなら、その人は、最高の善を手にできるのです。
人々とともにハリ(クリシュナ)の話をするなら、やがて彼には、精神の悟りが訪れることでしょう。
彼の心は浄化され、喜びに満たされていき、感官の楽しみを嫌悪して、バクティを愛するようになるでしょう。そしてそのことが、その人の解脱につながるのだと言われるのです。」
解脱とは、永遠の実在者と一体になり、
至福の恍惚の中で、宇宙創造という神の夢を楽しむ、境地、らしいです。
楽しそう。
バクティを愛することが、解脱につながるとのこと。
たぶん、最終段階にきたら、そういう心持ちになってくるんでしょう。今はまだ分かりませんが。
ありがとうございました♡

