至高の体験~「あなたは至福の大海、限りない歓喜」さんのブログより

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2014-07-16 02:19:24

昨日は、「あなたは至福の大海、限りない歓喜」→http://blogs.yahoo.co.jp/happyhappysai2010 というブログにはまっていました。

究極の真理がたくさん書いてありました。その中に、この方の体験記がありましたので、転載させていただきます。

転載ここから・・http://blogs.yahoo.co.jp/happyhappysai2010 より

このことを最初のブログで書いてから二年半ほどになります。リクエストにお応えして、サイババに癒された話を書きます。今回は旅行記全般は書きません。その時のことだけを書きます。なぜなら、あの旅行について書くためにはそれなりの覚悟が必要だからです。

もうだいぶ前のことですが、僅かな間違いも誇張も、飾り立てた表現も差し挟みたくはありません。ただただ、真実の体験を忠実に、誠実に書きたいのです。それは、私にとって掛けがえのない日々でした。

私がサイババのもとを訪れたのは一度きりです。その時、サイはホワイトフィールドに滞在していました。

私がアシュラム(修道所)を訪れて8日目のことでした。当時、私はバーラタ(インド)の乾燥した埃っぽい空気と、昼夜の寒暖の差、心身の疲れなどから体調を崩していました。

喉が痛み、声は出づらく、痰が一日中途切れない。肺の気管支という気管支全てに痰が浸潤しているような感じでした。夜、同部屋の人が焚くお香の煙が苦しくて、咳込んで眠れない日々が続いていました。明らかに急性気管支炎、あるいは、もしかしたら急性肺炎を起こしていたかもしれません。

バーラタに着いた直後から疲労のため熱発し(大学の試験の翌朝出発)、食欲もなく、初めのうちは一日に一食しか食事も喉を通らず、水あたりで腹は下り、そんな体調でも毎朝3時過ぎには起きて、冷水のシャワーを浴び、瞑想をし、キャンティーン(食堂)でセヴァ(奉仕)をしていました。

一日に二度のダルシャン(謁見)にあずかり、それ以外の時間は主に瞑想やセヴァ、各国から集まった兄弟たち(ジョーは片道切符を手に単独で行ったので皆初対面)とバジャン(讃歌)を歌って過ごしていました。

今でこそ、常備薬を何も持たず、予防接種も受けず、一年中作務衣と雪駄、敷布団も敷かずに寝ていて平気なジョーですが、当時はまだ信仰を持っていなかったためにか弱かったのです。

そうです、信仰なんてとんでもない。神様や仏様の話題など一度も上ったことのないような無信仰な家で、私は育ったのですから。

正体不明の熱情、得体の知れない激しい渇きに駆り立たれてバーラタまでやって来たのです。当時、周りにこう言っていました。「今なら三蔵法師の気持ちがわかる。歩いてでもインドに行きたいくらいの気持ちだ」と。

「グルは実在から溢れる自己意識の光を啓示して沈黙を与えるものである。

グルの眼差しが弟子の瞳に出会えば、いかなる言葉もその意味を失うだろう」

 -ラマナ マハルシ


この日は、確か帰国する前日だったように思います。朝のダルシャンのとき、サイババはステージ上の玉座に腰掛け、私をじっと見つめました。何千人もの人々がいる中で、その時は明らかに私だけを見つめていました。それはこの滞在で二度目でした。(当時はまだ目が良かったのではっきりと見えました)

サイは私を見つめたまま、握りこぶしをつくり、コップで何かを飲む仕草を三回ほどしました。

その瞬間、私の身体にあったあらゆる不快な症状が、完全に消え去りました。

あらゆる症状が、完全に、ゼロになりました。

完璧な癒しが、一瞬のうちにもたらされました。

今、私は人の健康に携わる仕事をするようになり、あのようなことがいかに尋常でないことだったかより分かります。なかには、集団ヒステリーやプラセボ(暗示)の類と言う人もいます。

しかし、あれほど激しい症状の数々が、一瞬のうちに煙のように消えてゼロになるヒステリーやプラセボがありうるでしょうか。だいいち私自身、病気を治してほしいという願いなど全く持っておらず、それどころか病気のことすら意識していなかったのです。ただ、サイババを見つめていただけでした。

(ちなみに、ジョーは先天的に視覚に障害があるのですが、この病気を治してほしいと祈ったこともありません。「なぜ?」と問われたときには、私はその人に「目が良くなれば幸せになれますか?」と問い返します。そう言うとみな黙ってしまいます)

私に言えることは、「この身に非常識なことが起きた」ということです。このようなことは、私自身が体験したのでなければ良くて半信半疑だったでしょう。

この時のバジャンは言葉に出来ないほど素晴らしいものでした。恐らく、生まれて初めて法悦を味わったのだと思います。言葉では到底表現しえないのですが敢えて言うなら、とても甘美で心地好く、身体のことや「自分自身」という感覚さえ忘れて、その場のエネルギーのうねりの中に溶けてしまったような感じでした。

しかし、その感覚は夢心地ではありませんでした。むしろそれは、これ以上ないほどリアルな、いのちの感覚でした。

「あなたは、自分のカルマを返済しなければならないと言った。これは正しくない。
私の恩寵は、山のようなカルマを一瞬にして焼き尽くすことができるのだ。一本のマッチの火が、数トンの綿をたちまち焼き尽くすように」

 -サティヤ サイババ

ダルシャンの後、私に起こった癒しについて現地で親しくなった人に尋ねると、彼は即座に教えてくれました。

「スワミはそういうことを時々なさるよ。何かを飲む仕草は、
『お前のカルマ(業)を飲み干してやる』
という意味らしい。実際、スワミはダルシャンで大勢の人の間を歩き終わった後、肌が荒れていたり目が腫れていたりする。みんなのカルマを引き受けられているんだよ」

かつて、サイババへの様々な中傷があったなかで、私が彼の神性を疑うことが全く無かったのは、こうした個人的体験によるものです。この体験は、私の人生においてあまりにも決定的でした。

神は、私の信仰が一生涯揺るぎないものになるために十分な確信を、自分自身では絶対に否定しようのない自分自身の確固たる体験という形でプレゼントしてくださったのです。それは私にとっては、指輪やペンダントよりも遥かに価値ある贈り物でした。神は私から、病気やカルマだけでなく、疑いの余地を完全に奪い去られたのです。

この体験で感じたものを一言で表現するなら愛です。

愛、愛、愛……。

それ以外にどう表現できるでしょうか。



「その愛、それは時が流れ始めるより前に、あなたのただ一つの所有物として私が与えたものだ。

あなたがそれを私に返すとき、私は、あなたが本当に私のものであることを知るだろう。そして私は、あなたの悲しみも幸せも私の中に融けこませる。

その愛は、私自身だ。それゆえ、私はあなたを永遠の至福の中に置こう」


「あなたを愛している。青い空を使って、静かなる緑の草を使って、私はそれをあなたに伝える。

木の葉を、木を、色とりどりの花の色を使って、私はそれをあなたに囁く。

渓流を使って私はそれをあなたに叫び、鳥に愛の歌を授けて歌わせる。

私は暖かな日の光であなたを包み、自然の芳香で空気を満たす。

あなたへの私の愛は海より深く、あなたの心にある一番大きな望みよりも大きいのだ」

 -サティヤ サイババ


「『私の父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

あなたがたは、私が空腹のときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてくれたからである』。

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう。『主よ、いつ、私たちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう。

『あなたがたによく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである』」

 -マタイによる福音書(25-34~40)




写真はアシュラムの中庭の風景。様々な人種や宗教宗派の人々が世界中から集まっていました。個人的には、ネパール人やスペイン人、オランダ人、イスラエル人、ルーマニア人、ポルトガル人と友達になりました。それぞれグループをつくり、輪になって神様にバジャン(讃歌)を捧げています。それは素晴らしい、うっとりするような雰囲気でした。まるで悠久の昔から時が止まっているかのような、実にスピリチュアルな、愛に満ちた調和の雰囲気がそこにはありました。日本のせわしない暮らしが、まるで絵空事のように思えました。

当初は、前回までのお話で締めようと思っていたのですが、もう一つ分かち合いたいことがあります。

サイババがなぜあのような霊的な体験を私に与えてくれたのか、後になってそのことを考えたとき、思い当たる事がありました。

愛と癒しの体験をした日の三日前、私は午後のダルシャンの後、外に出かけていました。その時、ある方がパンと紙パックのマンゴージュースをくれました。それは実においしそうで、お腹も空いていたので、私はルンルン気分で帰り道を歩いていました。

ところが、アシュラムの入口のところまで来たとき、バーラタ人の貧しいお母さんに呼び止められました。小さな子どももいました。

そのお母さんは手を合わせて、すがるような目で何か必死に訴えていました。



「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです」

「神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛を周りに放つことがことができます」

 -マザー テレサ



彼女が話している言葉はわかりませんでしたが、言っていることは明らかでした。私が手に提げているビニール袋の中のものが欲しいということです。

正直、内心「ゲ」と思いました。更にまずいことに、その場で足が止まってしまいました。ルンルン気分は一瞬でしぼみ、私は突っ立ったまま母子を見つめていました。心の中で天使と悪魔の葛藤が始まりました。


「おい、せっかくもらったのにあげちゃうのかよ? バックレようぜ」

「そんなことできるかよ、この人たちお腹空かせてるみたいだし」

「お前がやる必要ないだろ。他にいくらでも金持ちはいる」

「でも、サイババは人間はみんな神の化身で兄弟だから、困っている人には親切にしなさいと言ってたぞ」

「お前がそれっぽっちのパンとジュースをあげたからって何が変わるんだ? ここには貧しい人が大勢いるんだ。自己満足の偽善者ですかーwww」

「そんな理屈が必要か? 目の前にジョーの助けを必要としている人がいるんだ」

「お前ホントにばかだな、そのおいしそうなパン、アシュラムの中には売ってないぞ」

「別ので我慢すりゃいいんだろ。オレは別のを買うお金持ってるけど、この人たちは多分お金持ってない。選ぶ自由もない」

「本当はお金持ってるかもしれないじゃないか。さっさと行こうぜ。別に恨まれやしねえさ、みんなシカトしてんだろ」



ここまで具体的ではなかったにせよ、様々な複雑な思いが言葉になるよりも速く、ジョーの胸の中をを駆け抜けていきました。


「神は、盲目の物乞いとして、知的障害者として、ハンセン病患者として、子どもとして、よぼよぼの老人として、犯罪者として、あるいは、狂人として人の前に現れる。

あなたがたはあらゆる身体というヴェールの背後に神なるサイを見て、奉仕を通してサイを崇めなければならない」

 -サティヤ サイババ





清いお方が天使と悪魔を黙らせたとき、私は袋をお母さんに差し出しました。手記には、「少し惜しい気がした、未熟だ」とありましたが、本当は、だいぶ惜しい気がしていたのです。

こんなささやかなものさえ気持ちよく贈ることができないほど、私は貧しい人間でした。

しかし、渋々だったとはいえ、この行動が、結果的には神の恩寵をいただく原因となったのかもしれません。なぜなら、人への親切は神様への親切、人を喜ばせることは神様を喜ばせることだと言われているからです。

偉大な魂たちが、このことが真実であることを証言してきました。それはまさに、カルマヨーガ(行為のヨーガ)の神髄です。

この現場実習は、神様が私のために歌ってくださった『バガヴァッド ギーター』(神の歌)でした。


「あなたがハートの中の神を呼ぶなら、あなたのために特別に書かれた『ギーター』を、あなたは聞くことができる」

 -サティヤ サイババ


オーム サイラム

ジョーティル with LOVE


「主は、ただ純粋なバクティ(神への愛)によってのみ喜ばせることができる。その他の行為は全て空しい努力に終わるだろう。

だから君たちは、全ての生き物に対して自分自身のように接し、全被造物のアートマ(内在の神、真の私)でいらっしゃる全能の主に愛を捧げるんだよ」

「人は、自らの悪魔的性向を捨てて、全ての生き物に憐れみと友情を示すことで主ヴィシュヌを喜ばせることが出来るんだよ。

無限の存在であり、全ての原因なるお方を喜ばせたなら、手に入れることのできないものがあるだろうか?

僕の言葉を信じるなら、君たちの心にも必ずや僕と同じ信仰と智慧が根を下ろすだろう。

『身体が自分である』という妄想を根絶やしに出来る判断力が、僕と同じように、女の人や子供にも生まれるだろう」

 -プラフラーダ『バーガヴァタ プラーナ』(シュリマッド バガヴァタム)より(転載ここまで)

この方も、目が良くなることを、一度も祈られたことがないのですね。

「【善いもの(シュレーヤス)】と【快いもの(プレーヤス)】とは異なる。
それら二つは、目的は異なるが、どちらも行為(カルマ)を促す。

【善いものを選ぶ者たちは幸いである】。

【快いものを選ぶ者たちは、最終的な目標を見失う】。


善いもの(シュレーヤス)も快いもの(プレーヤス)も人々の前に現れる。
【賢者は双方を吟味して、一方を他方から区別する】。

【賢者は、快いものよりも善いものを好む】。

【愚者は肉体の欲望に駆り立てられて、善いものよりも快いものを好む
】。

(死の神ヤマ(閻魔大王)の言葉)


と、この方のブログに書いてありましたけれど、常に選択して、善いものを選ばれているのでしょう。

これからも、ブログを楽しみにしております。

ありがとうございました。

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