2016-04-08 17:07:47
朝から、「悟り」ってなんだろうって考えていました。
たった2字の単語で簡単な言葉ですが、「悟り」ほど、いろんな意味を持つ言葉ってないような気がします。
セミナーや宗教でも、悟り系があふれているこの頃。
ヤフーで「悟り セミナー」って検索したら、非2次元とか、セミナーとかも山のように出てきました(ノ゚ο゚)ノ
・・そんなこんなで、こんな反論ブログまで出てきていますヾ(@°▽°@)ノ
(「頑張らなくても大丈夫」さんのブログより)
↓http://c-sakuranbou.hatenablog.com/entry/2015/01/31/103000
「効果を得たい、癒されたい、浄化されたい、
悟りたい、という思いも、不足感から来るエゴです。
そのワーク、セッション、セミナーの効果も、
せいぜい続いて1週間ってところでしょ。
早ければ、2、3日でそのときの偽りの浄化、
悟りの感覚はなくなります。
だってね、エゴが生み出した偽りなんだから。
エゴは満たされることはありませんからね。
次から次へと欲します。
それで、すぐにまた、あの時の感覚を・・・
と思って、セッション、セミナーを受けたくなります。
スピの世界、そんなリピーターばかりです。
まあ、ビジネス的には優良顧客ですけどね。」(引用終わり)
・・辛口・・!
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たしかに・・不足感から「悟りたい」って思うんでしょうけど、
悟りたいという欲望はエゴからというか・・
永遠の至福を感じたいという、魂の欲求からくる欲望のような気もするのですけど、
でも、ある意味本質を突いた記事のような気もします。
この記事もとっても興味深かったです↓
http://c-sakuranbou.hatenablog.com/entry/2016/04/05/083000
「いま、世の中に出回っているスピリチュアルって、
人を怠惰にさせるものばかりですよね。
ありのままでいい!
引き寄せの法則でお金と最愛の人(ソウルメイト)を引き寄せよう!
そんな言葉に踊らされて、
やるべきこともやらないで、
自分の弱さとも向き合わないで、
散財している人がスピリチュアルの世界には多いですよね。
欲まみれのスピリチュアルな教えを受け入れるほど、精神性は低下しますよ。
高くはなりません。
むしろ低下します。
ダメ人間になってしまいます。
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金と暇がある人は、どうぞご自由に!
死ぬまでやってろ!
と思いますけど、
スピリチュアルに興味を持つ人の大半は
精神的にも経済的にも追い詰められた人が多いですからね。
そうした人からお金を巻き上げる、
腐りきったスピリチュアルには心からうんざりするんですよね。」(引用終わり)
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この記事も興味深かったです。
↓http://c-sakuranbou.hatenablog.com/entry/2016/04/06/084500
カルマを浄化するよりも、波動を上げるよりも、
アセンションをすることを目指すよりも、
実社会に根付いた仕事をして働いた方が、
よっぽど人間性が磨かれるよ。
社会貢献にもなるよ。
スピ風の表現で言えば、その方がカルマの浄化になり、
波動を上げることになり、
住みやすい環境、素晴らしい地球を作り上げることになるでしょうが。
それをしないで、カルマの浄化のためヒーリングします。
波動を上げるため瞑想をします。
セッション受けます・・・って。
はあ???
それが何の役に立つの?(引用終わり)
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非常に分かりやすい言葉で、スピリチュアルの弊害を書いてあります。
スピリチュアルも、心を癒すという点で、必要な人もいるし、良い面もあると思うのですけれど(今は人間関係などで疲れた方も多いですし)、大金をつぎ込ませたりするのは問題ですね。
スピリチュアル系のセミナーって、「ええー」っていうくらい高いものが多いですからね(;^_^A
「欲まみれのスピリチュアルな教えを受け入れるほど、精神性は低下しますよ」っていうところで、
「他人(ひと)の痛みを取り除こうと手助けするには、その人自身の意識が助けようとする相手の意識よりも高くなければ、ほんとうの癒しや変化は起こらない。」(アンマの御言葉)
という言葉を思い出しました。
悟りについて、非常に分かりやすいブログがありましたので、少し転載させていただきます。
水井伸輔さんのブログです↓
http://ameblo.jp/mizui15/entry-12143685267.htmlより
「霊性修行にも段階があって、最初は、良いものだけをみて、ポジティブなことだけを考えるという訓練が大切なのだと思います。
それは、悪いものばかりを見て、ネガティブなことばかりを考えてしまう人のための修行です。
こういう修行は、基礎訓練ですから、確かに重要なんです。
でも、これで終わりではないです。
次のステップは、ポジティブもネガティブも、あるがままに見ていく段階に入ります。
それは、ポジティブとネガティブの二元性を超えていくという方向性です。
避けていたもの、嫌っていたもの、憎んでいたものを受容していく修業をするのです。
それによって、ポジティブにも、ネガティブにも、過剰に巻き込まれない状態を学んでいきます。
二元性の超越というと、すぐに一元性の境地とか、ネガティブもポジティブもない境地のことを語り始める人がいます。
でも、そういう境地は、そんなに簡単に得られるものではないです。
知識だけで分かったような気になることはできます。
イメージだけで、悟ったような気になることもできます。
エネルギー場に同調して、催眠状態になることもできます。
しかし、本当の意味で、二元性を超越した境地になるのは、容易いことではありません。
分かったような気になることと、本当に分かることとは、天と地の差があります。
僕たちは、サッカーの試合をテレビで見ていると、下手だなとか、どうしてミスをするんだ、とか思うことがありますよね。
テレビというのは、高い視点から、フィールド全体を見ています。
いわば、神の視点から、試合を客観的に見ることができるのです。
こういう視点を、メタ認知といいます。
高い視点から試合を見ていたら、選手がなぜミスをするのか、なぜゴールを決められないのか、と不満に思います。
しかし、実際に選手の視点から見れば、視野には限界がありますし、目の前の選手の動きしか、認識できないのです。
その限定された認識の中で、ものすごくハードな運動をしながら、ボールを制御しなければなりません。
実際に、サッカーの試合をしたことのない人は、それがどれだけ大変なことなのか、理解できないのです。
一元性の境地というのは、いわば神の視点で、現象を見ている境地です。
しかし、サッカー選手が、試合をしながら、神の視点を確立してプレーをするということと、僕たちが、テレビでインスタントに、神の視点から試合を見るということとは、全然違うということがわかりますよね。
これが、分かったような気になっているということと、本当に分かっているということの違いです。
一元性の世界を分かったような気になるということと、本当に分かるということの、とてつもないレベルの違いを理解してほしいのです。
そして、本当に分かっている人の凄さというのは、数百年も、数千年を経ても、その名前が歴史に残るようなレベルの凄さです。
一元性の境地を本当に分かるということが、どれだけ大変なことなのか。
そして、一元性の境地を分かったような気になって、悟りは誰でも簡単に得られる、と言うことが、どういうレベルの悟りのことを言っているのか。
そういうことを、知識だけでもいいので、理解してもらいたいと思います。
悟りという言葉の定義は、人それぞれ違います。
僕の言う悟りというのは、釈迦が到達したような境地のことです。
そもそも、悟りという言葉は、仏教特有の言葉ですから。
悟りの定義が、もっと初歩的な気づきのことを指しているなら、そのような悟りは、確かに誰でも簡単に得られるものでしょう。
そうであるなら、そのような悟りを得た人は、偉くも何ともありません。
でも、その初歩的な気づきが、最終的な悟りであるかのように言っているとしたら、変ですよね。
あるがままでいいんだ、何もしなくていいんだ、私はいないんだ、すべてはそのままでいいんだ、すべては愛されているんだ、はじめからすべてを愛しているんだ…
このような気づきは、それを本当に腹の底から実感しているならば、とてつもなく霊的に高い気づきだと思います。
確かに、最終的な悟りと言ってもいいでしょう。
でも、本当にそれを、腹の底から、自分の全細胞で、全存在で、実感しているのでしょうか。
もしそんな人がいたら、歴史に名を残すような聖者ですよ。
釈迦レベルの聖者だと思います。
しかし、そのような境地を、イメージとして、思考として、自分にインストールすることは、誰にでもできることです。
そういうのは、イミテーションと言うのであって、金と金メッキの違いのようなものです。
一見すると、キラキラと光り輝いていますが、その本質まで金なのか、表面だけ金メッキをしているのかを、僕たちはきちんと見分けなければなりません。
汚れた石でも、いいと思います。
なぜなら、誰でもその本質は、ダイヤモンドだからです。
魂は、磨けば、必ず輝くのです。
でも、その石に、金メッキをして、私は悟ったと思い込んだところで、石は石なのです。
磨くことなく、石がダイヤモンドになることはないのです。
悟りごっこ、覚醒ごっこをしたところで、いつかメッキは剥がれます。
悟りごっこをしても、本質は何も変わりません。
本質は、自己暗示をしたから、磨かれるものではないですから。
石を磨くためには、利他的に生きる必要があります。
心の穢れをしっかり自覚し、思いと言葉と行動を浄化していきます。
嫌な自分、汚い自分にも対峙しなければならないでしょう。
自分が、人をどれだけ見下し、蔑んでいるのかを自覚しなければならないでしょう。
自分が過去にしてきた沢山の酷い行為も、自分のこととして、受容しなければなりません。
自分のエゴから、逃げることなどできないのです。
だからこそ、すぐに悟ったり、簡単に最終的な境地に至ることなど、あり得ないことです。
結局、地道に自分を磨いていくという、一番面倒で、一番骨の折れる作業をしなければなりません。
でも、だからこそ石は磨かれ、本物のダイヤモンドになるのです。
ダメな自分、未熟な自分、弱い自分、汚い自分でも、地道に磨いていけばいいじゃないですか。
10年経ち、20年経ち、30年経った時に、必ず今よりも、魂の光は着実に増しています。
そういう道は、地味で、面倒で、面白みがないかもしれません。
楽で、簡単で、あっという間にすべてが解決するような方法を、僕たちは求めています。
そういう心の隙に、魔物が入ってくるのです。 」(引用ここまで)
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非常に分かりやすいですね^^
「一元性の境地」を、腹の底から?悟っている、アンマやサイババのようなマハートマ(偉大な魂)は、全くこの世に執着することがなく、この世の矛盾に満ちた性質にも影響を受けないそうです。
アンマは、狂犬病の犬にも
「モーン モーン(私の子供よ)」といいながら近づいて食事を自分の手から食べさせ、
犬の残した食べ物を食べて、犬のカルマを断ち切ることもできました。
(その犬は数分の後に死んでしまいましたが、アンマは狂犬病の犬が残した食べ物を食べても、何の影響も受けませんでした)
また、ハンセン病の方がダルシャンに来られた時、皆が恐れて席を離れる中、アンマはあふれる愛情を止められずに、傷口をなめて治されたそうです。
(見ている人は震えあがったと書いてあった気がします^^;)
真理を自ら体現し、行動で示せる人が「悟っている人」で、ただ口先だけで、「一元である、非2元である、悟っている」と言っているだけでは、腹の底から悟っているとは言えないのでしょうね。
この、水井さんのブログは非常に分かりやすくて、読みふけってしまいました^^;
もしよろしければどうぞ^^↓
http://ameblo.jp/mizui15/(「心を浄化して幸せになる法則」)
アンマのバジャンが素晴らしくて、見とれています♡
「アンマが与える抱擁とキスは、普通のものと思ってはいけないよ。
アンマが誰かを抱擁したり、キスを与える時は、それは人を清めたり癒したりする。
アンマはわが子に自分の純粋な生命力を分けあたえているの。
それで子供たちはほんとうの愛、無条件の愛を体験することができる。
アンマが誰かを抱きしめるとき、それはその人の内に眠っている霊性エネルギーを呼び覚まし、この霊性エネルギーによって、やがては真我(アートマン)の覚りという究極の目的地に導かれるのよ」(アンマの御言葉より)
ありがとうございました♡

