2016-01-29 23:49:40
前回の続きです^^
「臨死体験者が語る『宇宙とこれからの地球』」という講演会では、中山さんに続いて、高木義之さんの講演がありました。
これがまた・・とても心を揺すぶられた講演でした。最後の方は涙が出ました。
高木さんは、臨死体験という言葉は使わず、「宇宙体験」という言葉を使われていました。
高木義之さんは若くして松下電器の社長室長をやられていた方で、 同時に松下合唱団の指揮者でもあり 、いわゆるエリ-トコースを歩まれていた方です。
たしか、松下電器にいる時に、特許を200(だったかな?うろ覚えです、すみません)取ったと言われていました。
wantonさんのブログで、高木さんの宇宙体験の記事を、昔読ませていただいていました。講演会でのお話とかぶっていますので、
http://ameblo.jp/64152966/entry-11633109833.htmlより転載させていただきます。
(高木康之さんの宇宙体験。転載ここから↓)
その日 昼寝から覚めると珍しくオ-トバイに乗りたくなった。そしてどこに行くでもなく国道一号線を京都に向かって走っていった。
そして 気づいた時は遅かった。
自動車がこちらに向かって走ってくる。何なんだ、これは !!!
分離帯のある国道でクルマがこちらに走ってくることはあり得ない。あり得ないから夢に違いない。ともかくブレ-キをかけなければ。だが、到底間に合う距離ではない。
急ブレ-キの音。スロ-モ-ションのようにクルマが近づく。ゆっくりと接近・・・そして・・・ガッシャ-ン !!!・・・・・ん?痛くない。。。周りを見ると、オートバイが横転。
バウンドしながら横すべりしていく・・・・自分の身体も吹っ飛び、道路に叩き付けられる・・・ヘルメットが壊れて 道路を転がっていく・・・それを見ている私。
私は自分の交通事故を目撃しているのだ。ヘルメットは歩道を歩いている女の人の足元まで転がっていった・・・・
その人が振り向いた。
゛あれは合唱団のSさんだ!!!
おおい、僕だよ 僕だよ !!!゛Sさんはしばらく足を止めて事故現場を見ていたが・・・やがて行ってしまった・・・。Sさんが ゛大したことないみたい 私には関係ない・・・と考えているのがわかる。
゛おいおい ひどいよ あれは僕だよ 関係はおおありだよ !!! ゛
オ-トバイはガ-ドレ-ルに引っかかるようにして止まる。自分の身体も二度三度バウンドし「く」の字にねじれて国道の片隅に横たわっている。
それを上から眺める自分。゛少しも痛くない。
痛くないということは やはり夢なんだ゛。自分を眺めることが出来るということも夢以外にない。ああ驚いた。よかった、夢でよかった !!!
人が集まってくる。口々に色んなことを話している。
「歩道にあげないと危ない」「もう死んでる」「死体は動かしたらあかん」「まだ生きている」「現場は動かしたらあかん」「オ-トバイからガソリンがこぼれてる。危ない」
場所は国道一号線 自分が勤務する松下本社の手前の交差点。ちょうど救急病院がある。
すぐに担架が運び出されてきた。私は担架で病院の中に運ばれていく。その横を酸素マスクを持った看護婦さんが走る。
それを天井の高さで テレビカメラのように追う私・・・・
私は検査室の診察台の上でレントゲンをたくさん写されている。
「ひどいなあ これは・・・骨盤が砕けてる・・・足がはずれてる・・・・おっと 首の骨もだめだよ・・・ほら この手 ぐしゃぐしゃ・・・・ひどいもんだね・・・膝も 肩も・・・全身骨折だよ・・・・」
医者が看護婦と話しながら検査している。・・天井からその様子を眺めている。
゛あんなにレントゲンを浴びて大丈夫なんだろうか゛
右足は付け根から不自然に曲がり、首も不自然に曲がっている。首の骨が折れているか損傷しているのだろう。骨盤が割れて右足は付け根からはずれているのだろう。膝がねじれているから関節で折れているのだろう。
しかし一番ショックだったのは左手 !!!ピアニストにとって 手は命と同じくらい大切。子供のときから指を大切にしてきた。遊ぶときも体操のときも、バレ―ボ―ルや柔道など、突き指や指のケガの可能性のあるものはほとんど避けてきた。それほど大切にしてきたこの手が、突き指どころか、手が手首のところで折れ曲がり、手の甲が手首にくっついてしまっているのだ !!!
「これは無理ですね、うちでは。手の打ちようがない」゛おいおい それはないだろう。何とかしてよ゛結局 大学病院に転送された。初めて乗る救急車。サイレンが時々鳴る。゛そこどけそこどけ 僕が通る゛
一夜あけて手術が始まる。『天井からそれを見ている私。』まるでマグロをさばくように自分が切り裂かれていく。腰の右側が大きく切り開かれる。どす黒い血が流れ出す。
゛ひどいものだ とても見られたものではない・・・・゛骨盤が割れ、右足が骨盤からはずれている。骨盤に穴を開けるいやな音。太いボルトが差し込まれ、骨がつなぎ止められる。
゛ちょっとちょっと!そんなことしていいの?? 土木工事じゃないんだから゛とても見られたものではない。あまりの残酷さに目をおおう。
場面が転換。ICU(集中治療室)にて。異様な姿。頭も顔もミイラのように包帯でぐるぐる巻き。足にはロ-プで重りがぶら下げられている。腕はこれまでに見たことがないくらい大きなギブスで包まれている。
全身固定-酸素マスク-口鼻にパイプ。腕には点滴。あちこちからパイプが出ている。血液と排尿のためか。ベッドの横にはオシロスコ-プ。脳波か心電図を取っているらしい。下半身から排泄用のパイプ。電極とオシロスコ-プ。
思わず目を背けてしまう姿。まだ生きているのだろうか。しかし動かない。場面が転換・・・妻が医者から説明を受けている。
「やるだけのことはやりましたが・・・・」
妻が呼びかける。
『お父さん大丈夫? お父さん、お父さん!・・・・お ― 父 ― さ ― ん !!!!! 』呼びかけは次第に大きな声になる。最後は絶叫。
絶叫はたまらない。特に家族の絶叫は堪えられない。
゛大丈夫。僕はここにいる。心配いらない、これは夢なんだ゛
妻には聞こえていないようだ。伝わらない。
『お父さん - お父さん - どうして ・・・・ど う し て ー 』゛
聞こえているよ。何か変なんだ。大丈夫だ、心配いらないってば゛しかし通じない。伝わらない。もういい。もう見たくない。
場面は転換。待合室で脅えているわが子に一生懸命呼びかける。
゛大丈夫、心配いらないよ。何か変なんだ。あれはお芝居なんだ。何かの間違いだからね。これはきっと夢なんだ。お父さんは大丈夫だよ、すぐ帰れるから。今日は晩御飯は一緒に食べる日だからね。待ってるんだよ。゛
ああ・・・やはり通じない。手応えが無い。映画「ゴ-スト」のような感じ。もういい。もう見たくない・・・
また場面は転換。ICUで寝ている自分。動かない。その横で妻がイスに座って見守っている。遺体が安置され、妻が不寝番をしているようにも見える。
゛ 僕はまだ生きているんだろうか?もう死んでいるんだろうか?? ゛しかし こうして自分が自分を見ているということは・・・もしも夢でないとしたら・・・僕は死んでいるということになる・・・゛まさか、そんな馬鹿な !!! ゛
・・・・・
私は今、河原に来ている。身体はないが意識だけがある。ちょうど夢の中のような感じ。私は河原の上、地上2~3メ-トルの高さにいるようだ。ここはどこだろう。賽の河原 ??? 賽の河原ではない。すぐに分かった。
ここは愛媛県松山市の郊外、横河原。重信川という大きな川の河原。よこがわら・・この名前はいつも私に何とも言えない気持ち、涙ぐむような感情を呼び覚ます。
ここは、子供の頃 (3歳から6歳) を過ごした思い出の場所。子供の頃を思い出す時、田舎とかふるさとという言葉を聞く時、いつも思い浮かべるのはこの場所。
私は大阪生まれだが、横河原は間違いなく私のただ一つのふるさとなのだ。父は肺結核の専門医で国立愛媛療養所の医師だった。
結核は今ではほとんど忘れられた病名だが、当時(昭和20年代 )は猛威をふるっていた法定伝染病で、各地に国立療養所があった。私達は国立愛媛療養所の官舎に住んでいた。結核病院は人里離れた場所にあり、周りは山の中だった。
隔離された場所だから遊ぶ仲間は少なく官舎のわずかな子供と、患者さんや看護婦さんが遊んでくれる程度だったが、むしろ一人のことが多かった。中でもその広い河原が好きだった。みんなで散歩したり、お弁当を食べたり、一人で遊んだりした。
この川と河原は、丸い石を拾って川の表面に投げて水切りをしたり、珍しい形の石を捜したり、水遊びをしたり雪すべりをしたり、いろんな楽しみを与えてくれた。その河原は非常に広かった。
向こう岸は霞むくらい遠く、その先には森があり、そのはるか向こうには皿が嶺が聳えていた。その青い頂きには雪が見えることもあった。
私はよくその河原の土手に座って その雄大な風景を眺めたり、夕焼けを見て感動したものだった。゛いつかあの向こう岸に、そしてあの山に、あの山の向こうまで行ってみたい ゛いつもそんなことを考えていた。
今、ここに30年ぶりにやって来たのだ。しかし、景色は大きく違っていた。河原も重信川も見る影もない。広大な河原は、信じられないくらい狭くなっていた。
雪すべりをした土手は護岸工事でコンクリ-トに変わっていた。広い河原も河川敷の工事でコンクリ-トで何段にも塗り固められていた。わずかに残された河原の幅は数十メ-トル。そして、そこには一滴の水もない。コンクリ-トで埋められなかったわずかの川底にやっと昔のままの石ころが残されていた。
゛川は、河原は、土手は、その土手の赤松はどこに行ってしまったのだろう ゛呆然と見回す。
゛私の家はどうなっているんだろう ゛それとおぼしき場所を訪れる。
ほとんどが草原だが かろうじてあの頃の家々の配置が分かる。自分の家のあった場所にやってきた。
゛ああここだ。あの匂いがする ゛まさにあの頃の土の匂いを覚えていたのだ。はっきり分かる。
ここが私の家の庭なのだ。あの頃、広々とした庭だった場所は今はただの草原。家も塀も両隣の家も周りの家も何もない。しかし、はっきり分かるのだ。あの時と同じあの匂いがするのだ。
アカシアの、ヒマワリの、ダリアの、ガ-ベラの、カンナの花たちの匂い。それらの匂いは土の中に記憶されているのだ。゛ああ ここでキリギリスを捜した。ここでアリを見つめて一日しゃがんでいた。ここにカブトムシの来る大きな樹があった ゛
幸せだった時代の幸せの象徴が、まるで『雨月物語』のように今は草原になっているのだ。母の声が聞こえるようだ・・・・
゛はやくおうちに入らないと日射病にかかるわよ ゛優しい母の姿がよみがえってくるようだ。
おたまじゃくしを掬ったあの池は? 埋め立てられて運動場になっている。でも玄関前の生け垣はあのときのままだ。・・・・思い出の場所をすべて回り終えた。
まるで巡礼が札所を回るように・・・・思い出の場所に別れを告げるように。
”そろそろ行かなきゃ”子供の頃、夕方の汽車の汽笛が聞こえると、もう帰らなきゃ、と家に帰ったものだ。夕方のあの物悲しい感覚。
゛もう、行かなきゃ ゛
・・・・すると徐々に自分が上昇し始めた。
゛行かなきゃあ、でも行きたくない。でも行かなきゃあ・・・ ゛
そんな思いで手足をバタバタと動かして、もがいているような感覚。
゛今、僕はあの病室で死んだのだ ゛この思いは強烈だった。
死ぬってこんなことだったのか ・・・・・・激しいショックだった。しかしやがてその事実を受け入れた。事実は受け入れざるを得ない。そして嵐が静まった。穏やかになった。
゛もう何もしなくていいんだ。もう全てが終わったんだ。 ゛そう思うと不思議と気持ちが楽になった。
苦しみが去り、私はなめらかに上昇し始めた。今までのもがきやもつれがなくなり、ス~ッとのぼっていく。
私の人生は、今終わった。したかったこともたくさんある。でも、出来なかったこともたくさんある。
家族はどうなるんだろうか。仲間達はどうなるんだろうか。もっと優しくしておけばよかった。もっと仲良くしておけばよかった。ごめんね。でも、仕方がない。もう苦しむことも、ジタバタすることもない。あれこれ考えることもない。何もかもが終わったのだ。今、私は死んだのだ。
゛さよなら。みんな、さよなら・・・ありがとう。みんな、ありがとう・・・゛
苦しみが無くなり、なめらかに上昇し始めた。次第に高度が増し、目の前の風景が 遠くなる。河原の両岸が寄ってきて狭まり小さくなる。山々も集まってきて小さくなり、やがて四国が見えて小さくなる。
日本が小さくなり、そしてついに目の前に地球が現れる。
゛これが地球なんだ・・・・これが僕が生きた地球なんだ・・・・゛
強烈な衝撃・強烈な映像、その美しさ・・・・その大きさ、その厳粛さ・・・その圧倒的な迫力・・・その偉大さ、その美しさに感動・・・・幸せ・満足・充足・至福の感覚・・・
突然、激しいショックを感じた。それは思い出した衝撃。長い間悩み続けた問いを思い出した衝撃。誰もが必ず考え、そして答えが見つからず、やがてあきらめてしまう 問い。
゛自分とは何か?どこから来たのか?そしてどこへ行くのか?゛
今、目の前に巨大な地球。本物の地球、三次元の地球・・・立体の地球が、圧倒的な迫力で語りかけてくる。
それを見たとたん、激しい衝撃。
゛生きている。地球は生きていたんだ゛魂が揺さぶられる・・・・感動の涙がこみあげてくる・・・・
今、自分が変わりつつあることが、はっきり分かる。自分が地球と宇宙とつながっていくような感覚・・・
ついに分かった。一生問い続けた問い ?????゛
自分とは何か。どこから来たのか。そしてどこへ行くのか。その答えを・・・ついに見つけたのだ。
感動的な答え、それは・・・・光!すべてはひとつ!!
命は光であり、光の世界から来て、光の世界に帰る。すべての生命は一つにつながっている。
ああ、分かった・・・・これが分かればすべて分かる。何のために生まれてきたのかも分かる。どのように生きればいいのかも分かる。
なぜ、こんな簡単な事が分からなかったのだろう。
すべては一つ。すべてはつながっているのだ。すべての謎が解けた。すべて分かった・・・・・
もう、何もいらない。安心・安らぎ・満足・本望・・・・もう。何もいらない・・・・・安心していくことができる。安心して帰ることができる。もう、何もいらない。
暗黒の宇宙の中で、地球だけが美しく輝いている。
周りがゆっくりと明るくなり、音響が湧き上がってくる。
光は、次第に輝きを増し、ハ-モニ-は強まってくる。やがて激しい眩しさに何も見えなくなり、轟音に包まれて何も聞こえなくなる。
ああ、今から光の世界に帰るのだ。自分の周りの強烈な光が、四方八方に飛び散っていく。
光の世界に入って行く・・・・ここには何もない。物質的なものは、何もない。
しかし、ここにはすべてがある。過去・現在・未来のすべてがある。
未来永劫がある。永遠がある。
めくるめく光の波。無数の映像、無数のフラッシュ。
自分の過去・現在・未来のフラッシュ。自分の未来。
再生~地球環境~平和運動~そして死。
世界の過去・現在・未来のフラッシュ。宇宙の過去・現在・未来のフラッシュ・・・・
宇宙には、はじめも終わりもない。
10年後、ソビエトの崩壊。数十年後、アメリカの崩壊。
さらに数十年後、世界の崩壊。
未来は決まっていない。未来は選択可能。滅亡も進化も選択可能。未来は変えられる。
それには、この道を進むのをやめればいい。左右に豊かな田園風景が見える。
廃墟へと続くこのハイウェイから、田園に続く道におりればいい。
足をアクセルからブレ-キに移し、ハンドルを切って横道に入ればいい。
未来はすべて決まっているわけではない。未来は現在につながっている。
現在が変われば未来が変わる。
宇宙は永遠、精神生命体も永遠。
すべては一つ。
自分は死んだのだ。そしてあの世(光の世界)に来たのだ。
物質的なものは何もない。ここには何もない。お花畑も河原も。天国も地獄も無い。
ここには物質的なものは何も無い。
宇宙のように何も無いのかと言えば、そうではなく、空間も無いのだ。
ちょうど目をつむって何かを考えているような感じ。
意識やイメ-ジはあるが、物質的なものは何も無い。
あるのは意識だけ。ちょうど暗闇の中で考えているような感じ。
自分の身体は無く、ただ意識だけがある。
自分の意識とは別に、もう一つ巨大な意識がある。その意識はすべての意識の集合体のようなもので、全体意識とよんでもいい。
自分はこの全体意識の一部なのだ。
全体意識にはすべてがある。
全体意識には過去・現在・未来のすべての出来事、すべての記憶がある。
過去の記憶、現在の出来事だけでなく、未来の記憶もある。
例えるならば、私はス-パ-コンピュータに接続されたパソコンのように、知りたいことは何でも知ることができる。むしろ全体意識の中に自分(自意識 )があるといってもいい。
ここには過去・現在・未来という時間の流れも無い。
例えるならばすべて現在である。
時間は意識の中に認識としてだけ存在する。
光の世界はゼロ次元である。
ゼロ次元というのは、空間も時間も無いという意味である。
光の世界には何も無い。あるのは意識だけである。
光の世界はこの世のすべての場所、すべての時間に存在する。光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを包んでいる。
過去現在未来は一つのもの、全てが現在である。例えるならば、曼荼羅の絵のようなもの。生命とは何か。長い間追い求めていた問い。その答えが分かった。
生命とは、光。生命は光の世界から来て、光の世界に帰る。
生命は一つ。光の世界では、すべての生命が溶け合って一つになる 。それだけでなく、この世でも生命は一つにつながっている。
生まれること、死ぬこと。光の世界とは白い大きな雲のようなもの。
生命は光の世界から来て、光の世界に帰る。雨粒が白い雲から降って来て、蒸発すれば白い雲に帰るように。
生命は光の世界では一つになっている。雨粒は白い雲の中では一つになっているように。
生命にはそれぞれの役割があり、その役割を果たすために生まれてくる。雨粒にそれぞれの働きがあるように。
落ちて来た一つの雨粒に「前世は何か」と尋ねると、その雨粒は困るだろう。一つの雨粒には無数の分子が含まれ、その一つ一つに過去=前世があるからだ。
世界のあちこちに降った雨が、世界の川や湖に流れ、海にそそぎ蒸発をし一つの雲に帰る。そこですべての過去の記憶は一つになる。
そこから降ってくる雨粒には無数の過去があり、その中の一つの過去=前世だけを論じることは出来ない。誰にも無数の過去=前世があり、その一つだけを問題にする必要はないし、その一つに囚われたり縛られたりすることもない。大切なのは現在なのだ。
クギだって、現在どの柱を支えているかということが大切なのであって、過去そのクギの一部が鉄橋であった、レ-ルであった、ということは問題ではない。
光の世界ではすべての生命が一つに溶け合っている。生まれるということは、光の世界からやってくる。その一つの生命には、無数の過去、無数の前世が含まれている。その中の一つにこだわることはない。
「二百年前、あなたは前世で悪い事をした。そのカルマ-業-因果によって苦しまなければならない。だから病弱なのだ」というものではない。
前世で悪いこともしたかもしれないが、いいこともしたはずだし、前世に悪い人生もあったかもしれないが、いい人生もあったはずだ。
一つにこだわることはない。
一つの生命には無数の過去の人生や記憶が含まれている。
あなたの中には、キリストもブッダもモ-ツァルトもピカソもいる。あなたの過去は、多くの天才や偉人、素晴らしい人の生命の記憶も含んでいる。その中のどれに注目しどれを意識するかで人生が変わる。自分にとって素晴らしい過去=前世を見つければいいのだ。
「看護婦さんになりたい。私の中のナイチンゲ-ルがよみがえったのだ。」
「絵が好きだ。私の中のミケランジェロが活動を始めたのだ。」
そう、あなたの中にはナイチンゲ-ルもミケランジェロもいる。あなたは素晴らしい可能性を秘めた人なのだ。あなたには無限の可能性がある。
もし過去=前世があるとすれば、それは囚われたり呪われるためではなく 無限の可能性と大きなパワーを与えるためのものである。どこを意識し、どの可能性を大きく伸ばすかはそれはあなたの選択なのだ。誰にだって無限の可能性がある。特定の過去に囚われる必要はない。そもそも、一つの過去前世に囚われた恵まれない人生などない。それに気づけば今からでも人生は変えられる。
つまり過去は変えることが出来、それによって現在を変えることが出来、未来を変えることも出来るのだ。過去は選択可能なものなのである。
あなたには、無限の可能性があり、それはあなた自身の選択なのである。熱帯魚の群れは、何故一瞬にして数百匹が同時に方向転換するのだろう。一匹のリ-ダ-が先導しているのではないそうだ。それなのに、群全体が一つになって動いているのは何故だろう。
また、サンゴは数百万数千万のサンゴ虫なのに何故一斉に変色したり死んだりするのだろう。どうして竹林は数百年に一回、一斉に枯れるのだろう。
チョウや蛾には、羽根にコブラやフクロウの顔そっくりの模様をもつものがいる。それは、自分の天敵であるコブラやフクロウの姿を真似ることによって、自分を守るためである。これを擬態というが、しかし一体どのようにしてそれを描くことが出来たのだろうか。
枯葉チョウは枯葉そっくりである。ナナフシは木の枝そっくりである。もっと凄いものに、死んで朽ち果てた姿のバッタがいる。
羽根や身体は朽ち果て変色している。どのようにして自分の死体を真似ることが出来たのだろう。
さらに凄いのは、ワニそっくりの顔をもつ虫『ユカタンビワハゴロモ』だ。この虫の頭部はワニそっくりで、ワニそっくりの目、ワニそっくりの巨大なキバの模様まである。
自分の100倍以上の大きさのワニを真似てしまったのだ。しかしこの虫が生存しているということは、この擬態は成功しているのかもしれない。
擬態は、はるかに離れた場所にいる敵から見て自分がどのように見えているかがわからなければならない。虫たちは、どうしてそれが出来るのだろうか。虫たちはどのようにして自分をそのような形と色に出来たのだろうか。
アリはすべて勤勉とは限らない。よく観察すると、数%のアリたちはいつもふらふらと遊んでいる。「アリもサボるのか」と安心するかもしれないが、実はこのアリ、仲間たちの次の仕事を探しているのだそうだ。
面白いことに、この数%という比率は変わらないそうだ。実験でこの比率を変えても、しばらくするともとの比率に戻るそうだ。この比率は、一体誰が決めて誰がコントロ-ルしているのだろうか。
花はいつ現れたのか。
チョウはいつ現れたのだろうか。もし、花が先に現れたとしたら、花粉は運ばれずに滅びただろう。もし、チョウが先に現れたとしたら、チョウは餓死し滅びただろう。
何故、花とチョウは同時に現れることが出来たのだろうか。現在の科学では、これらに十分な説明が出来ない。多くの場合、偶然とか突然変異というしかないが、それで説明出来るだろうか。
自然界の様々な驚異は、偶然や突然変異で説明できるものではない。「獲得形質は遺伝しない」という遺伝学の常識からは、生物の進化さえ説明がむつかしい。
『生命はすべてつながっている』
このことで、自然の驚異はすべて説明出来る。
自然界はつながっているからこそ、熱帯魚の群れも、鳥の群れも一斉に方向転換できるし、花とチョウも同時に現れることができる。そして、虫たちは信じられないような擬態が可能なのだ。
ライオンはカモシカを殺しすぎず、カモシカも草を食べ過ぎず、自然界は調和し永続出来ているのだ。すべてはつながっているのだ。このことが分かればすべてが分かる。
光の世界では生命はすべて一つにつながっている。しかし、生きているときも生命はすべて一つにつながっていたのだ。固体や生物種を超えて、全てがつながっているのだ。そしてそれらはつながって一つになっているのだ。
何と素晴らしいことだろう。生命は一つ、生命はすべてつながっているのだ。生命はワンネス、自然はワンネスなんだ。。。。。。。。。 (転載ここまで)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宇宙の真理のような、宇宙体験ですね^^
「光の世界はスーパーパソコン」で、わたしたち一人ひとりは、「自分のことしか知らないパソコン」という言葉が興味深かったです。
「知りたいと思ったことの答えがすぐに分かる」という体験を、昔どこかで読んだことがある、と思いましたら、「死んで私が体験したこと~主の光に抱かれた至福の4時間~」という図書館から借りてきた本で読んだのでした^^

ちょっと説明しますと、この本は、小さいころにキリスト教の寄宿舎で学び、神に恐れと罪の意識を抱いて育った、インディアンの血を引く女性が書いた本です。
6人の子供を育てている31歳の女性が、手術後に臨死体験をする話でした。
体の中で何かがぽんと軽くはじけたかと思うと、いきなり身体から霊がするりと抜けて、上へ上がっていったのだそうです。強力な磁石にでも引っ張られているようで、彼女は、「これが自由なのだ」と無限の開放感に浸っていました。
彼女は、暗黒のトンネルのようなところを通り抜け、遠くの一点の光に向かって進みました。暗黒のトンネルには愛が満ち溢れていて、癒されている感じがしたそうです。
遠くの光の中心に男の人がいて、その人から光が射していましたが、言葉では表現できないほど強烈な光で、太陽をいくつも集めてもかなわないくらいの光でした。
身体のまわりが金色の光で輝き、全身から後光がさしています。完全に無条件の愛で、彼女はその方に思い切り抱きしめてもらいました。「ここがわたしの家。やっとわたしは家に帰れたのだ」と彼女は何度も繰り返しました。
この光り輝く方は、イエス・キリストだったと彼女は語っています。
イエス・キリストは、「あなたの死は早すぎた。あなたの時はまだ来ていないのです」と言われました。
彼女の時が来るのは、この世で使命を果たし、人生の目的、人生の意味を完成させてからと言われましたが、彼女は、「嫌です、わたしは、あなたのもとを離れたくありません」と、猛反撃しました。
次に彼女は、次々に疑問がわいてきました。すると、質問が終わらないうちに、すべての疑問にすっかり答えられてしまったそうです。
キリストの光は知識で、その光には、あらゆる真理で彼女を満たす力がありました。
例えば彼女が天地創造を思い出した時、彼女の目の前で、天地創造の様子が、本当に再現されていったのです。「尋ねたことの答えがすぐに分かる」という体験が、高木さんの体験にそっくりだなあと感じました。
高木さんは、「あの時私を突き落したのは誰や!と聞いたら、すぐに分かるんですよ」と言われていました。
「あなたがたもね、知りたいことを考えておいた方がいいですよ、すぐに分かりますからね。悪いことはできませんよ」とも言われていました^^;
そして高木さんは、知りたいことをできるだけ知ろうと思ったそうです。
「この世界はどうなるか?」と聞くと、すぐに答えが分かったのだそうです。
高木さんが臨死体験をした1981年の10年後、
1991年にロシアの崩壊が始まる
2001年にアメリカの崩壊が始まる
2011年に日本の崩壊が始まる
2021年に世界の崩壊が始まることが分かったのだそうです。
たしかに、
1991年12月にソ連崩壊
2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ
2011年3月11日に東日本大震災及び福島原発事故が起きました。
2021年は・・・どうなるのでしょうね。
(高木さんは、2020年までに核廃絶ができなければ、必ず誰かが核のボタンを押すことになるとも言われていました。)
ところで、臨死体験(宇宙体験)って、人によって様々なのですね^^
中山さんの場合は、「闇と光は一つ」、ということを体験し、
「死んで私が体験したこと」を書いたベティ・イーディーさんの場合は「イエスキリストと、光の知識」を体験し、
高木さんは、「一体感、ワンネス」を体験され、
他の方、例えば、森田健さんの書かれた「生まれ変わりの村」という本で出てくる方々は、「忘却のスープ」というものに出会う体験をされています。
・・正確にいえば、忘却のスープは、臨死体験ではないですね(;^_^A
話はずれますが、この「忘却のスープ」も、興味深いです^^

ちょっと説明しますと、中国北京から西に1000kmほど行った奥地には、前世の記憶をもつ人が多く存在する「生まれ変わりの村」という村が実際に存在しているのだそうです。
その人々によると、あの世には、前世の記憶を消す”忘却のスープ”というものがあるそうで、それを飲むと、人は今世の記憶をすべて忘れて、来世生まれてくるのだそうです。
その伝説を信じてスープを飲まなかった人が、前世の記憶を持ってその村に生まれ変わっているのだそうで、読んだ後、「もし死んでスープが出されても、自分も飲まずに今世の記憶を持って生まれ変わりたい」と考えたものでした^^
(臨死体験ではスープを飲まないから、記憶を持ったまま帰ってくるのでしょうか。)
・・話を戻しまして・・
なぜ、臨死体験というか、宇宙体験は、人によって様々なのだろうか、とつらつらと考えていました。
ここからは推測ですよ。
もしかしたら、人は、その時に達している精神的なものに応じての体験をするのかもしれない、なんて考えていました。
バーガヴァタプラーナには、人の霊魂が生まれ変わる様子が書かれています。
「人の霊魂は、行為の結果を刈り取りながら、また、同時に来世の原因となる行為を積み重ねつつ、この世からあの世へ移り住んでいくのです。」
「欲望に翻弄されたまま、敬意を持って神々や祖霊を礼拝し、祭祀を実行していった人、彼は死後には月の世界(天国の一部)へと到達し、彼らとソーマの樹液を味わうことでしょう。
しかし自分の功徳が尽きるや、彼は再びこの物質界に再生してくるのです。」
「与えられた自分の義務を、感官の楽しみや財産のためではなく、この私(最高神・絶対意識・至上の大霊・超越的実在ブラフマン)に捧げるように果たした賢者、執着を持つことなく、非常に清らかで平安な心の持ち主、そして、隠棲者の義務に専念し、「自分」とか「自分の物」という思いを持たず、自分の神聖な義務を果たしてサットヴァに満たされたもの、彼らは死の後には、「明るい道」を通って、宇宙の究極的原因であり、かつ世界の創造と維持、破壊を担う、すべてに遍満する最高者のもとへと至るでしょう。
また、ブラフマー神を最高存在として瞑想する者は、ブラフマー神が消滅するまでは、ブラフマー神の世界(サティヤローカという最高天)に住むことができるでしょう。
全創造の原因であるブラフマー神、また多くの聖仙たち、サナカなどのヨーガの主、そして、ヨーガの最初の教師であるシッダ達は、最終帰滅の時になると、すべてのプルシャの最高者である、太初のプルシャ(最高者、至上の大霊)の身体のなかへ入っていくでしょう。
けれども、彼らはまだ心の中に、差別感や行為者という思いを少しばかり残すため、創造のはじめにおいて、三グナの平衡が崩れるや、再び生まれてくるに至るのです。」(引用ここまで)
高木さんは、「自分は全体意識の一部なのだ」という経験をされましたが、すべてに遍満する最高者のもとに戻られる体験をされたのかもしれないと感じました。
一粒の雨粒が雲から落ち、そしてさまざまな体験をして、最後に海、または雲に戻る。
最後に戻る海や雲が、最高神・絶対意識・至上の大霊・超越的実在ブラフマンで、人はその中の一粒で、同じ大霊を持っているのだけれども、それに気づいていない。
最後に海に戻った時、その意識の一部だったことを理解するという感じなのでしょうか。
そうそう、それから、中山さんの臨死体験を聞きながら、「プレアデス+」の本の一部を思い出していたのでした。この部分です↓
「プレアデスの祖先は、存在の源は根本創造主であり、第一の原因であると理解しました。。
プレアデス人の祖先にとっては、二つの選択肢がありました。
一つは、根本創造主のもとに戻ること。もう一つは、継続でした。
彼らは、この宇宙に大使としてやってくる選択をしました。というのは、いつの日か、地球の人々もまた、完了の日を迎えることを知っていたからだそうです。
彼らはプレアデス星雲に来ました。それは、プレアデス星雲は、地球が最も困難な時に、地球に援助の手を差し延べることを知っていたからです。
その困難な危機を迎えた時、地球の人々は、根本創造主と、ふたたび一緒になる心構えができるであろうことを知っていたからです。」
中山さんは、大使としてやってこられたのかな、とか、根本創造主のもとに戻るか、それとも継続するか選べるのかな、とか、そんなことを考えてました。
「転生先を選ぶ部屋」って言われていましたけど、選べるっていうのは、自由ってことなんですよね?どこでもいいというか・・
あと、プレアデスって、スリ・ユクテスワの言われた、観念界とか、幽界とかのことなのかなとかも考えたりしてました。
そういえば、幽界の住人は、野菜を食べ、輝かしい光の泉から甘露をくみ上げて飲み、観念界に住むほぼ完全に近い解脱に達した魂たちは、至福のマナ以外には何も食べないとも書かれていましたね。
何も食べずに数年以上過ごされている秋山弁護士たちは、観念界から来られているんでしょうかね?
また、まとまらなくなってしまいました。講演会の話の半分も書けませんでした。。
ありがとうございました♡

